宿題から見える世界 〜夏休みの宿題に追われている君へ〜

宿題から見える世界

 

 世の中の子どもたちは、今、夏休みの宿題に追われていることであろう。そんな、宿題の傾向から、今の日本の有り様が見えてくるのではないだろうか。

 

 九州の田舎の小学校では、夏休みではなくとも毎日のように宿題が出される。(その他の地域ではどうだろうか。)量は、担任や学年の担任集団の裁量による。プリントや自学ノート、日記や週末作文など多様な宿題が子どもたちには課されていく。宿題はいつから始まったのだろう。そんなことさえも知らない。にもかかわらず、私自身も宿題を出し続けている。

 宿題について気になることを以下にまとめておきたい。

 

①  提出しなければ罰が待っていること

 宿題は子どもたちが登校すると、ただちに回収するようになっている学級がほとんどではないだろうか。提出しなければ、昼休みに終わっていない分をやらされたり、担任からの説教が待っている。宿題には、しなければならないという強制力が働いていることがわかる。やらなければ、休み時間がなくなり、しかも、説教までされるからだ。

 

②  丸付けをする教員にとっても大変な仕事になっていること

 宿題を出される側も大変なのだが、出す側も大変なのである(自業自得なのだが)。出したからには、提出されたものを点検=丸付けする義務が生じる。この丸付けに時間を奪われる。教員は子どもがいる間は、授業をしたり給食指導や掃除指導をする時間でほとんどが終わってしまう。そこで、休み時間等をうまくやりくりしながら、丸付けをしているのだ。本当に秒単位の争いである。しかも、教員によってはやり直しや出来ていな子の指導、先ほど述べたように提出していない子どもへの指導をする。余計に時間が奪われていくのである。

 

 じゃあ、子どもにとっても教員にとっても大変なんだからやめてしまえばいいじゃないかと思う方もいるかもしれない。そうはいかない理由があるのである。

 

③ 宿題が多いクラスの方がよいクラスという風潮

 保護者からの意見で「◯年生は宿題が少ないらしいですよ。せっかく、宿題や自学ノートをする習慣がついたのに、少なくなるとその習慣がなくなってしまうからいやですよね。」という声を耳にすることが多々ある。「少なくてありがとう。」「素晴らしい」という内容を聞いたことはない。つまり、<宿題多い=よい>という価値観がそこには見え隠れしている。

 もちろん、教員の世界にも宿題をしっかりと出すことがよいことだと言う価値観が残っていることは間違いない。

 

働き方改革と宿題

 最近は、働き方改革という名の下に、勤務時間を記録し残業時間を減らそうとする流れになっている。時間を減らすために1番削りやすい時間は宿題の丸付けの時間である。管理職の中には、宿題を減らせばよいという人もいる。宿題が学力向上につながっているのかしっかりと見極めて必要最低限にせよということである。この考え方に個人的には賛成である。しかし、③で述べたことと宿題を減らすことは相反するのである。宿題を減らすよう管理職が言ったところで、現場の教員のほとんどは減らそうとしないのが現状である。

 

⑤欧米文化との比較

 ところが、海外に目をやると宿題がない国がほとんどだという。なぜ、ここまで日本には(九州には)宿題文化が根付いているのだろうか。

 

 山ほどの宿題をしている子どもを眺めて、「わたしも子どものころはこうやって苦労したのよ。」と微笑ましく眺めている大人のみなさん(自分も含めて)。それが、あなたのためにどのくらいなったのでしょう。もう一度、この宿題文化について考えなそうべき時なのではないかと私は思います。宿題文化と苦労=美しいという価値が結びつくことで、本来の宿題の意味(子どもの力を伸ばす)とは違う意味合いで宿題が残り続けているのではないかと思います。

 

 宿題から日本社会が見えてくる気がしています。

 

PS  夏休みの宿題が終わらなくて悩むくらいなら、正直に終わらなかったといえばよいです。それでも、しつこくせめてくる教員がいたら、右から左に聞き流せばよい。